昭和47年11月23日 朝の御理解
中村良一
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
これは、神様の御教え、こういう風に御教え下さる。その神様のご真意と言うのは、どこにあるののだろうか。例えば、馬鹿と言われても、いわば腹が立つ。ましてや、乞食とか、泥棒だとかと言われたら、腹の立つのが当たり前。それを、例えば、辛抱しなければ、それを堪えなければ、おかげが受けられぬ。それには、泥棒と言われたら、「俺がいつ泥棒したか」と、はっきり、そこんところへ答えを出したら、これは、すっきりとして良さそうである、ね。
私はあの、今日、ここのところを頂いて、神様が、如何に、人間氏子を、神様の、言うなら、思い通りというか、自由自在に扱おうとしておられるかといったようなものを感じますですね。神様が、人間氏子を自由自在に扱おういうておられる。ところがこれは、立教神伝に見ますと、一番初めのところに、「この幣切り境に肥灰さしとめるから、その分に承知してくれ」と、いったようなものを、のっけから言っておられますよね。如何に、天地の親神様が、教祖の神様を、これからは、自分の手のように、足のように使おうとしておられるかということが分かるでしょうが。これは、いわば、形のことです。お百姓をなさっておられる、その百姓をやめて。もう、あの時に、病気で死んだと思うて、しかもその、家内は後家になっておったと思うて、というように、教祖様を、天地の親神様が、もう、家内にでも、自由を与えなさらんと言うような感じなんですね。家内にでも、主人を当てにするなと。そして、他のものには、当てさせんどいてから、神様ご自身が、教祖を自由自在に使おうとしておられるわけでしょう。この幣切り境に肥灰さしとめるから、その分に承知しえ暮れと、こう言うてござる。ね。これは、いうならば、形のこと、ね。自由自在に、教祖をお使いになろうとしておるということ。
ここのところ、五十八節でもそうです。人が盗人だと言うても、泥棒だと言うても、腹を立てな。ね。いうならば、神様が、その氏子の心を、自由自在に使おうとしておられる。そして、自分の一番都合の良い、いうならば、それを喜びで受けさせようとなさっておられる。ね。いわゆる、神様の前に、例えば、色々な、言うなら、理屈を並べ立てて、神様は、人間に教えておられるのですね。人間は、障子一重がままにならぬ、人の身じゃから。これなんかは、やっぱそうです。本当言うたら、障子一重がままならぬのが、人間の、実相と、実際の姿なんだ。だから、私の言うことを、よう聞かにゃいけんぞと言わんばかりに教えておる。ね。障子一重がままならぬ。なるほど、お話を聞けば聞くほどに、実を言うたら、障子一重がままならぬ人の身で、あるということがです。ね。翻然として、分からせていただくところから、金光様のご信心が、本当の金光様のご信心が頂けると思うですね。ね。ですから、神様が、例えば、ほんなら私共に、肥灰さしとめるから、その分に承知してくれと仰られるときに、私共が、「はい」と言う心の状態と言うものをです。神様が求め給うところに、いわゆる、信心は、素直でなからなければと、素直さが要求されるわけです。ね。それが、なら、形だけのことじゃない、分からせるだけではない。その氏子の心までも、神様が自由自在になさろうとしておる。ところが、どっこい。如何に神様とても、人間の心を、自由自在になさることが出来ない。ね。そこに、あらゆる角度から、あらゆる御教えをもってです、その心の状態を、自由に使わせていただく。いうならば、方法を教えておられる。ね。ほんなら、神様が、そういうように、その、人間を自由に扱い、心までも自由にしたいという願いを持っておられる。そのために、人間は、障子一重がままならぬ人の身であるという事を、あらゆる角度から、ま。説かれて、なるほどそうだと思わせて。ほんなら、そこに何があるのかと言うと、いわゆる、神様の助かりがあるわけなんです。同時に、氏子の助かりが、それに繋がっているのです。いわゆる、親にかかり、子にかかり、ね。と言うようなおかげになってきておる。ね。そして、氏子あっての神、神あっての氏子。初めて、そういう係わり合いというものが、スムーズに出来てくるおかげになってくるのです。ね。信心が、だから、素直にならなければいけない。ね。同時に、真心とは、身体惜しみをせぬことだと言われております。真心。いわゆる、真心が要求される。ね。神様が、ちょっと右のほうまで行ってくれ。左のほうに行ってくれ。上に行ってくれ、下に行ってくれと。ね。だから、それをその、真心を持って受けていくということが信心だということになるのです。
そこのところのです、いうならば、神様の願いと言うものが、私共に、そのようにかけられる。ね。そして、まぁ、結論いたしますと、本当に神様が、私共、人間氏子に、自由自在なというかね。自由無碍のおかげの世界に住まわせようとなさるわけでございます。ね。それを、いうならば、次元の違った世界。いうなら、おかげの世界、ね。また、ほんなら、これは仏教的な言葉ですけれども、滅法界といったような世界に住まわせていただくことが出来る。そらもう、滅法浄土だと、こういうでしょう。大変素晴らしいという意味なんです。また、そこの世界には、例えば、様々な法が無いのです。法を滅したてて、そういう、特別の世界に住まわせていただき、そこに、神様と、はじめて共にあるという世界がある。如何に、理屈の上で、神、われと共にあるというてもです。ほんなら、いうなら、神様と自由自在な交流というものが、いわゆる、おかげの世界に住まわせて、神、われと共にあるということは、本当は言えない。それで、私共は、まぁ、神様任せとか、親先生任せとかといった様な、生き方を稽古するわけですね。
形の上においては、だから、あの、本気で、その気にならせていただきゃ出来んことは無いのですけれども、心は、なかなか、そんなわけにはいかん。自由自在に、どんなに馬鹿と言われても、阿呆と言われても、いや、叩かれても、相手を祈るといったような心の状態に、なかなかなれないのです。そこは、信心とは本心の玉を磨くもの。信心とは、日々の改まりが大事と、改まりとか磨くと言うことを要求される。心が、その磨かれるところから、心が、限りなく、美しゅうならせていただくところからです。心が自由自在に、全てを有難いほうへ、有難いことへと受けていけれる心の状態。神様は、そこを願いとなさっておられる。だから、心と、形の上を、もう、心も形も、私共の、全てを、いうならば、神様は自由自在になさろうとなさっておるわけです。ね。そして、ほんなら、自由自在のおかげ。いうならば、自由無碍の世界に住まわせようとしておる。それをお徳の世界と言うのです。
肥灰さしとめるから、その分に承知してくれと。この幣切り境にと。そこで、私共の場合は、さまざまな問題が起きてまいります。難儀なことが起きてくる。ね。どうぞ、神様、おかげを頂かせてくださいというような時が、神様にとっては、一番、それが良いチャンスなんです、ね。ほんなら、このことを境に改まる。このことを境に、まちっと信心をしっかりせよ。といったような風になってくるわけなんですね。だから、そういう難儀と言うものが、神様と、私共の接点と、こう申しますよね。いよいよ、接しられる、繋がられる、いうならば、チャンスだということになるわけですよね。
昨日は、田主丸の地区の共励会。文雄先生が、昨日、夕方から、このスチームが、全然入らなくなった。もう、油が切れてしまっておるから、あの、お願いしてから、油を昨日、ちょいと入れていただいて、それで、こらいっちょん、温うないけん、どうしてじゃろかち。風は、どんどん来よるごたるばってん、一遍、こうしてみたところが、冷たい風が出てくる。あんた、かえってこら、部屋の中は冷えよる。そんなら、まぁ、みんなで、色々しよったけれども、誰も分からんわけです。それで、私が、あの今日は、田主丸の共励会に、文雄先生が来るから、あの人が機械に、あげのものに、大体、詳しいから、あの人が来たら、あの人に、して貰うたら良い。私は、もう寝とくから、帰ってきたら、そげんち、ねーごと言うとって下さいと言うて、公子さんに言うて休んだ。それから、偉い、文雄先生が帰ってきますと、必ず、私の部屋さへやってきてくれますから。えらい、ばってん、もう十二時過ぎたばってん、来ませんから。大体、田主丸から帰ってきたじゃろかと思うて、勝手のほうまで出てきましたら、公子さんが、一人起きておりますもん。先生が、あの、文雄先生に頼んでくれち言われたから、私も休まんで、帰ってきなさるとを待っとりますち言う。そして、ほんな今、帰ってきなさいました。それであの、控え室のほう、見てもらっていると、こういうわけです。ほんならもう、それを直したら、すぐやってくれるかと思って、待っておりましたら、しばらくしたら、やってまいりました。もう、石油のにおいを、ぷんぷんしてから。それが、どうかやっぱ、機械の弾みで、何か、ちょうど小便まるごたるふうな勢いでですね。びゅーち、石油が出てきたとです。それで、顔から石油がこう、かかって来とるとです。それで、風呂入って、えらいこう、したげなけども、洋服に、こう染み込んでるもんですからね、石油臭いわけです。どうして、今日、直ることは直った。だから、暖房が、今朝もこうして入ってるわけですけれども、まぁ、どうしたわけやったか知らんけれども、そうでございました。
例えば、私が、公子さんに、頼んどった。文雄先生が、今夜は遅かつげな、今頃からと言うのじゃなくて、私が、言うておったことを、もうそのまま、公子さんにしろ、文雄さんにしろ。そういう、もう十二時過ぎごろから、石油かぶりながら、こうやっておるという。ね。これなんかは、ほんなら、私の言葉と言うものを、その公子さんにしろ、文雄先生にしろ、まぁ、重く感じておるからです。ね。ちょいと見てみてから、「どんこん分かりませんでした」と言うても、それで良いのです。けれどもそれはやってない。ね。それから、あのまた、私のところへやってまいりました。もう、一時過ぎとったでしょうか。それから、まぁ、何時もの様に、まぁ、足を揉んでくれた。私はその、いつもその、足を揉んでもらったり、自分のよかごと、あの使う。文雄さんが何時も出てきませんもん。何かあるときでなきゃ出てきませんから、けれどもそこにですね、文雄先生の場合には、もうあの、合楽に出てきたが最後、月のうち、どうですか、まぁ、十日ぐらいしか出てこんでしょう。いろんな、共励会とか、御月次祭とか、まぁ、自分達の会合とかとかと言うだけしか出てきませんから、つきのうち、十日ぐらいしか出てこんでしょう。だから、出てきた時だけは、もう、絶対、親先生が言うとおりなろうという気持ち出来ておるようですね。もう、これは、それを思うです。もう、言わにゃせんと言うのじゃなくて、それは、だから、ほんなら私が、例えば、無理を言うても、あの、それは、私が言うた以上のことを、いわゆる、来た時だけは、させて頂く。ね。私は、そういう例えば、生き方がです、ね。まぁ、文雄先生が、段々おかげを頂いておるものは、そういうところにあるのだと。ね。三十日の全部を、ほんなら、親先生が自由にしようと、私が思うて、それに応えれれようになったら、もう、同じ、立派なことでしょうけれども。それは出来ない。商売もしておる、また、自分の考えもある。ね。自分の都合もある。だから、そうそうに、神様の都合のようなわけにはいかん。親先生の言いなさるとおりにはいかんけれども、せめて、合楽に出てきた時だけは、もう親先生が、右ち言うなら、絶対右。
昨日、私が、お夜食のことを言うたら、もうそのお夜食のことを、ちゃっとこう、言うなら、手配してくれてるわけです。ね。そして、やっぱり、十分に足を揉んで、もう、大方、二時やったでしょう。ね。あー、二時過ぎだったでしょう。まぁ、一時間ばっかりあるけんで、一時ばっかりなっと休みなさいと私が言うた。だからね、例えばほんなら、その、合楽におかげを頂いた時だけなっとん、親先生が言うとおりに、いっちょ、動こうと、そういうところがです。実は、文雄先生が、いわゆる、神様から、言うなら、ご信用を受けるところじゃないかと思うですね。もう、合楽に来た時だけは、もう、ずーからはまっとる。
例えば、昨日、ほんなら、石油かぶって、こう風呂入って、石油のぷんぷんしよるでも、それでも、こう何か、一つも困った顔をしない。してない。もう笑うちから、今日はもう、あーたもう、まるきり、ちょうど、小便掛けられた風ですたい。こう顔から、洋服さん石油がかかった。ちょうちいうて。ね。それをほんなら、そん、有難いとか、愉快とは思わんでしょうばってんからですたい、ね。あの、困ったとか、迷惑とかといったような風に、一つも感じてないように、私には見えるんです、本当は。なら、御用のし振りから言うてもです。本当に、合楽に来たときだけは、石油だらけになろうが、夜が、一時が二時になろうがです。ね。親先生が、食べるち言うなら、飲むち言うなら、そんなら、お付き合いして飲みもする。言うなら、食べもする。ね。私は、食べるなんて言わん。ね。私は、それが、良いとか、悪いとかじゃないですけれども、とにかく、合楽に来た時だけは、親先生の、いうならば、心の中に飛び込んでしまうような気持ちで居るということがです。私は、おかげを頂くことだと、こう思いますね。はぁ、親先生が、あげんしてくれち思いよるばってん、分かる。ね。けれども、その、思うようにならない人も、沢山あります。もう、親先生が考えておることは分かっとる。またそれを、ほんなら、言葉に出して言われても、心の中ででもですね。今日はもう、親先生が言うとおりしよう。親先生が心任せ、いや、痒かとこがあるなら、本当に痒かとこに手が届くような生き方で、合楽に来たときだけは、もう、させて頂くもんだと、こう決め込んでしまっとるようです。だから、そこには、自分の我情とか、我欲とか、自分の都合と言うものは、全部、抜きにしておる。ね。そういう生き方がです。を、私は、神様が求め給う。ね。
この幣切り境に肥灰さしとめるから、その分に承知してくれ。これはもう、教祖の全体の上に、それを、如何に神様が教祖を、自由自在に使おうとなさったかということ。ね。そこで、ほんなら、今、文雄先生が例を取りましたが、そんなに、四六時中というわけにはいかん。けれども、合楽に来たときだけは、ね。その分に承知しておるわけである。ね。そこで私は、あの、文雄先生の信心があると思うんです。ね。だから、それとても、だから、本当言うたら、もう、ずーから任せきってしまおうという、その決心と言うものは、なかなか、その決心がつかなければ出来ることじゃない。もう、今晩な遅うございますけんとか。何とかかんとかと、いわばその、いわば理屈は何ぼでも付くのでございます。ね。いわゆる、その分に承知しておらなければ出来ることではない。そういうものが求められると同時に、ほんなら、今度は、心の面がそうです。人が、例えば、盗人じゃと言うても、乞食じゃというても、腹を立てなということは、心を神様が、自由に使おうとなさっておる。この二つの面がです。私共は、段々、出来てくる。おかげを頂くために、本気で改まりもしなければならない。磨きもしなければならない。改まりもしなければならない。ね。そこから、自分の心を自由自在に、それこそ、馬鹿と言われても、阿呆と言われても、ね。腹を立てんで済む。いや、泥棒だと言われても、乞食だと言われてもです。(神様 ?)
この前、私が、大阪に参りましたときに、専任の先生から聞かせていただいたんですけれども、あぁいう、大徳を受けておられる、阿倍野の先生だけれども、そりゃ、隣近所の教会からは、非常に評判が悪い。しかもそれを聞かせていただいて、それこそ、言葉にも出せんごたる、言うなら、その悪口を言われなさる。私は、それを聞いてから、本当、びっくりしました。ね。だから、それをまた、なら、先生に中傷する人があってもです。もう何にも仰いません。神様が、ご承知ですからと。それだけなんです。それはとても、ほんなごて、私が、今度、専門の先生から聞かせていただいた、その伊藤コウ先生の、その、言うならば、悪口なんかというものは、許せない、普通から言ったら。ね。許せないような、例えば悪口を言われてもです、ね。それを、神様がご承知ですからと、こう言う。ね。そこにほんなら、先生が、如何に自由自在に心を使いよりなさるかと言うことが分かるでしょう。ね。いわゆる、泥棒だと言われても、乞食じゃと言われてもです、ね。例えば、神様がご承知でございますからと言う生き方で行ったら、自分自身が、泥棒しておらなければ、乞食しておらなければ、腹の立つだんじゃない。ね。けど、神様がご承知だからと、受けていけれるような心を、神様は求め給うのである。ね。
または、形の上においてもです。なら、文雄さんが合楽に来たら、私も文雄さんが自由自在に使おうとするけれども、もう、使おうとする前にです、ね。いうならば、もう、なら、文雄先生が、前半のほうの石油のほうのことは、私が使おうとしておる。もうそんなら、十二時ごろからでも、私がその、使おうとしておる。石油だらけになってからてっちゃ、使おうとしておる。後半は、もう使おうと言わんでもです、もう自分な、使われる、ね。その分に承知してくれとこう。その分に、いわば、その事を承知しきっておる。ね。自分の都合と言うものを言うてない。ね。だから、そこんにきがです、私はこの、せめてと言うところをね。せめて、合楽に来た時だけは、親先生が言うごとなろう。いやもう、言われんでっちゃ、ちゃんと、親先生の気持ちは分かっとるのだから。その気持ちに添わせてもらう。痒かとこに手の届くような生き方にならせて頂こうと、この思い込んでおると、私はそう思うんです、文雄先生が場合は。思いこんどらなきゃ、そら、それだけの事は出来んです。もう、遅かけん、先生早う休みなさいち言うです。けれども、私が、もう眠ってしまうか、休めと言わん限りは、やはり、足を揉んでいる。ね。それがほんなら、毎晩じゃなか。ね。せめて、合楽に来たときだけはと言うのです。ね。ですから、信心にゃ、そういうところが、私は必要だと、ね。その分承知してくれ。ね。そして、なぜ、そういう形の上でも、心でも、自由自在に使おうとなさるかと、ね。それを、懇々と分からせることのために、ね。障子一重がままならぬ、人の身ぞと、こういうような御教えがある。まぁ、事実がそうなんです。自分の知恵やら力では、どうにも出来ることじゃないという事が、いわば、翻然として分からせてもらう。
翻然とといや、昨日、熊谷さんが、夜の御祈念に参って見えて、お届けしておられましたが、ある難儀な問題を、ご神前で、一生懸命御祈念をなさりよった。そしたら、あることが、翻然として分かった。もう、本当に神様、翻然として分かるということは、こんなに心がすっきりするものでしょうかと、お礼を申し上げたら、あそこの、お社の中から、はじき返る様な、おいさみがあったち。私共がですね、翻然としてわかるということは、そんなに神様が、勇んでくださる。神様が喜んでくださる。ね。だから、そのことが翻然と、神様のおかげを頂かなければ、立ち行かんと言うことが分かるところからです。ね。神様のお言葉にそむくわけにはいかん。神様の仰せどおりに仕りますということになるのです。その分に、例えば、承知してくれと、神様から言われた時に、いえ、そんなわけには参りませんと言う風にじゃなくて、はい、承知いたしましたということが言えるのです。ね。同時に、そんなら、そういう意味において、形だけのことではない、心をも一緒に、自由自在になさろうとするけれども、これはどっこい、ただ、素直と言うだけでは出来んのである。そこで、信心は本心の玉を磨くものぞと、日々の改まりが大事ぞと、改まること、磨くこと。言うならば、垢を落とすこと、磨きを掛けることを、いろんな意味合いから教えてくださる。そして、私共が本気で、ね。翻然として、障子一重がままならぬ人の身であるということが分かって、あなたのおかげを頂かなければ立ち行かんと言うことが分かって、その神様におすがりしなければおられないということが分かったところから、本心の玉を、本気で磨きもしよう、改まりもしようという事になってくる時に、自分でも、不思議なくらいに、自分の心を自由自在に、有難いほうへ、有難いほうへと使うことが出来る。そこに、いわゆる、神様が、心を自由自在に使いなさるということになってくる。形を、心を自由自在。そして、氏子と共に、言うなら、自由無碍の世界に住もうとなさっておられる。初めて、神、われと共にあるという信心の境地は、そこに住まわなければです、神われと共にあるという、いわゆる、実感もおかげも頂かれんのです、ね。言うならば、自由自在のおかげを下さろうとする。必要なものなら、必要なものに応じて、ことに応じて、神様がおかげを下さることが出来る世界に、神様が、われと共にです、住もうとしておられる。そこのところを、いわば、親に係り、子にかかり、あいよかけよで立ち行くと教えておられる。または、氏子あっての神、神あっての氏子だからとも、そこんところを、切に、私共に、言うならば、立教神伝じゃないけれども、私共に、そういう神伝を下したい思いで御ありになるのが、神様じゃなかろうかと、私は思うのです。ね。
例えば、ほんなら、久富繁雄さんにです。この幣切り境に肥灰差し止めるからと、もう、神様は喉から、もう、言いとうてたまらんぐらい、思いよりなさるじゃろと思う。もう、いい加減で、いっちょ、百姓止めちから、ね。御広前で、一生懸命、御用でもしてくれないかと。けれども、まぁだ、その、「はい」ちゃ言えそうにないところにです。そこんにき、その、文雄先生じゃなかばってんです。神様の願いと言うものを、推慮して、そしてこちらが、翻然と、そこんところへ飛び込んで来るところからです。私は本当の、いわゆる、おかげの世界に住むことが出来る。ここ辺のところの踏ん切りが、だから大事。ね。
その分に承知させようとなさっておられる。教祖ご一人だけじゃない。私共、一人一人の氏子に、その分に承知してくれと、ね。そこで、私共が、翻然として、承知が出来た時です、ね。初めて、神様と、私共が、いわゆる、神様のほうからいや、氏子と共にあることになるのであろう。私共から言えば、神と共にあるという、いうならば、もう普通で言うなら、不可思議奇妙な世界がそこにある。それを、お徳の世界と言うのである。お徳を受けた方達は、例えば、今、阿倍野の先生のことを申しましたように。とても、私が聞いてもです。ほんなこて、それは、ちょいと、たまがるようなことを言われ続けても、おられるらしいです、お若い時から。ね。けれども、それを、一向、腹立てられない。神様がご承知ですからと、心を自由に使うておられる。ね。その上、形の上のこともです。神様の仰せどおりに仕りますというようなおかげを頂いたとき、はじめて、ね。神様と共の、いわゆる、神われと共にありと言う、安心の世界。自由無碍の世界、ね。無尽蔵に、無限に、おかげの頂けれる世界。だから、そういう世界をね、私共が、やはり、目指す気にならなきゃいけん。ね。それを徳積みと言う。それを、お徳を受けるという。ね。だから、この苦しいことでも、これが、お徳を受けることのためだと思うたら、それを有難く受けられんはずは無いのだけれども、ね。その目先のおかげのことばっかり、目先だけのことを言うて、徳を受けようとしない。金光様のご信心は、どこまでも、やはり、お徳を受けて、有難い世界に住まわせていただくということが、神様の願いなのですから。神様が、 言うならば、あの手この手を使うてでも、形の上のこと、心の上のことを、自由自在になさろうとしておる。そこまで頂くと、いかにも神様は、人間を束縛したり、そのまぁ、何と言うでしょうか、こりゃ、私と言うたが、一番いいかも知れません。なら、私が皆さんを、自由自在に使おうとしたら、もうとにかく、親先生はワンマンだからと言う人があります。けども、ワンマンのようであるけれども、実を言うたら、私と同じ様なおかげを頂いてもらいたいから、私がワンマンに、あぁしなさい、こうしなさい、こうせろと言うわけなんですよ。ね。だから、ね。神様にそれを置き換えると、神様は、やっぱり、教祖様を、自分の良い様に、お使いになられたように、やっぱり、私共も、神様が、自由に使おうと。心も形も使おうとなさっておられる。そこを、私共が、推慮して、そのところに、ね。翻然と分からせて頂くところから、想像出来てくる。ね。そして、いわゆる、本当の意味においての、神様任せというか、親先生任せということになる。だから、親先生が頂いておるようなものを、頂けれるおかげが頂けるということになる。ね。
今日は、五十八節を、そのような風な意味で、聞いていただきましたですね。馬鹿ち言うても、阿呆と言うても腹を立てるな。それはね、神様が、心を自由にしようとなさっておられるという御教えなんです。どうぞ。